水辺で待つ

書き残し

台所で涼む寅

adieuさんの「旅立ち(https://adieu.lnk.to/0Ki2le)」が好きでここ最近ずっと聴いているのだけど、「いいかげん旅するのをやめて 大人になれたら いいのにね」という歌詞があって、うろ覚えで「いいかげん傷つくのをやめて 大人になれたら いいのにね」と間違った鼻歌を歌って、何故か泣いた。

成人なので大人の部類なのだろうけど、仕事が辛くて、でも何かできそうで、自分のやってみたいこととして始めたからと手放せずにいる。
こんなにうだうだ、もだもだしているのが大人なのだろうか。

先日、友人と通話したとき、23で結婚するってプロフィール帳に書いてたんだよと言われた。
その年を過ぎても結婚する気は起きないし、私は、来年自分が生きている確証を持てないでいる。
きっと今プロフィール帳を書いたら空白だらけなのだろうと思う。どうなっても、生きても死んでも、私の選択であり、同時にそうではない。

1年

 1年前、2020年、あなたは人生で一番の壁にぶつかる時を前にしてのんびりダラダラと毎日を過ごしていましたね。それは今でも変わっていません。相変わらず自分には世間一般で言われている危機感というものが足りないみたいです。ダラダラしています。それもあと少しで終わるかもしれませんが。それはさておき、視点を変えてみるとそうやってできるのは環境に恵まれているからだと思います。家族、友人などなど。あなたに近しい人はあなたを尊重してくれてます。食べ物が美味しくて、好きなものを買えて、楽しく遊んで、人生、うまくいくと思ってましたよね。

 残念〜!!うまくいきません。思ってるよりずっと自分という存在が複雑だということに気がつくだけの1年になりま〜す!気がついた時点で何か変わるとかは特にありません。気がついても毎日は同じように過ぎるし、周りの人はあなたとは違う選択をして、新しい場所へ向かいます。自分は、自分だけがフラフラとした浮遊物のような感覚を持ったまま、どこにも行けずに生きていきます。穏やかで暖かい海の浮遊物になれば、何も考えずに、何も恐れずにいれたでしょうけどあなたがたどり着いたのは荒れに荒れた海です。海ですらないかも。何もわからない暗闇に放り出される感覚を何度か味わうことになります。自分は空を飛んでスイスイと進んでいく存在にはなれなかったんだな〜と痛感します。涙が出る時もあります。何もしたくなくなって、どこにも行きたくなくなる時もあります。全てのものが無意味で、自分がやってきたことが一瞬で不要物扱いされた気分になる時もあります。同じになれない。同じようにできない。自分の大切に抱えてきたものをタコ殴りにされることもあります。先に言っておきますけどそれ、しんどいです。夜中に眠れないかも、と不安になることがあります。1日中液晶を見続けることに罪悪感を覚えるようになります。言葉を探して、探して、情報の波に呑まれて息をしてるのかどうかわからなくなる時があります。自分はこの先何もできないんだろうか、と時間が進むことに価値を感じなくなります。それでもあなたは何とかそこに留まって、じっとその、何かわからないものと対峙します。これは未来の人間からのメッセージなので、そうなります。過去は変えられないので、そうなることが決まっています。苦しくても、辛くても、寂しくても。

 それともう1つ、言っておきます。今でも、その得体の知れないものとは離れられていません。それは私の傍にいます。ただ、そこにいます。何もしてきません。私が目を向けても何も。たまに、それが大きくなって視界を遮ることがあります。そうしたら、散歩に行きます。散歩をしているとそれは少し、小さくなります。それから、友人と話します。家族のような近い存在ではなく、友人と。そうするとそれは段々と小さくなって、また自分の傍でじっと、じっとしています。確証はありませんが、それはいつまでも消えないと思います。他の人がそれを認識しているのかは定かではありませんが、私の傍からは離れてくれないようです。

 苦しくなったら、どこかへ行ってみてください。何もかも投げ出したいと思ったら、何もかもやめてみてください。何もできない自分を責めないで、そんな日は眠ってください。眠れない時は眠らなくてもいいです。戦わなくても、勝てなくても、大丈夫です。いつの間にか、リングに立っていたらそこから降りてください。それに気が付けるだけの嗅覚を持っているから、大丈夫です。大丈夫だと思っておいてください。

 生まれてから何十年と経っているけど、自分が自分として生きていけるという実感をまだ持っていないと思います。それに気がつくのが、今からの1年です。その先の時間は苦しいです。でも、その先のことは自分にもわかりません。だから、立ち止まることに億劫にならないでください。立ち止まると進んでいないように思えて不安になるかもしれない。走り抜けていく人々が羨ましくなるかもしれない。同じように走っても、追いつけないし、どんどん追い抜かれるかもしれない。でもある時、ふと辺りが全く見たことの無い場所になることがあります。立っている場所ではなく、景色が変わっていることがあります。そうしたら、探検してみてください。知らないこと、見たことのないもの、出会ったことのない人と遭遇します。そうしてフラフラしてみてください。その中で鼻の奥が痛くなったら、それがサインです。逃さないように、捕まえてください。何でもいい。人でなくても、目に見えるものでなくても。それがどこかへ連れて行ってくれます。そのサインだけ見失わないようにしてください。それが、現状の自分が言えることです。その瞬間があれば、多分大丈夫です。大丈夫じゃなくてもいいです。大丈夫じゃないなりにどうにかします。どうにかならなくてもいいと思える自分になれます。それがあなたが回り回って、寄り道して見つけたことの1つです。それっぽっちを見つけるのに時間がかかりましたが、見つからないよりはマシだったと思います。

 大丈夫にならなくても大丈夫。どうやっても時間は進む。1年なんてあっという間で、1年前の自分のことなんて覚えてないし、それでもいい。それでいいと思う。



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下書きに残っていた2021年に書いたやつ。読み返したい部分があるからアップしておく。

書き留めていたこと

あっさりと崩れ去る。

あまりにもあっさりすぎて笑ってしまいそうにもなる。

私の自意識というものはかなり脆い。

私を私たらしめるものが、この世には少なすぎる。

私が私であることの確信を持てたことがあまりにも少なすぎる。

この世ではまだ、私は私と名乗るだけの確信を持てないでいる。

その確信を探して探して、探しているのだ。

この世にようやく生まれたばかりの、脆くて頼りない私は、その確信のために。

  

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逆行の個体

 私はずっと、未来とは何か、新しいものを作ったり、新しい人間になったりするものだと思っていた。常に進化し続けること、時間が経つにつれて人間は新しいものや成長が求められる。しかし、最近になって私はずっとこの未来へに解釈が実は違っているのではないか?と思い始めた。

 未来とは過去を取り戻すものである。そう思うようになった。この考えはまた変わるかもしれないし、変わらないかもしれないけど、今はそう思う。過去を取り戻す、は少し攻撃的かもしれない。過去に渡る、過去と繋がる、といってもいいかもしれない。私はこれまでずっと、何もなかった。過去に何もないなら未来も何もない。あるのは今だけである。その今も、一瞬のうちに過去になっていく。人間は時間という概念の中で生きているから、そうやって過去、現在、未来などと分けて過去を悔やみ、現在に疲弊し、未来に不安を覚える。しかし、それは全て繋がっているのではないか。

 未来を生きることは過去を生きることである。あの時、自分が諦めてしまったことを、手放してしまったことを、そうしなければ、そうせざるを得なかったことともう一度出会うために生きるのではないだろうか。少なくとも、私はそう生きたいと願っている。

 あの日の、諦めたことを取り戻して、過去の自分を救ってやりたい。そういうことができるようになったのはそれが過去となった今の私で、今の私の後悔や諦めを取り戻して救ってくれるのもきっと未来の自分なのだろう。そのために私は色んなことを知って、色んな場所に行って、色々なことを考えたい。それができるのはきっとこの世でたった一人、私だけだろうし、私だけであって欲しい。その後悔も諦めも手放したことも誰にも知られずに、私だけが知っていればいいと思う。

 

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」鑑賞・感想

*ネタバレあり

 某動画配信サービスにて視聴。 数年前からチェックはしていたが、昨日やっと視聴。ざっくりとしたあらすじは妻を事故で亡くした男の破壊と再構築という感じか。

 男は妻が亡くなっても涙すら流せず、自分が妻をどう思っていたのかもわからなくなる。分解衝動に駆られ、色々なものを分解する男を周囲の人間はおかしくなったと思い、怪訝な目で見る。義父も同じ悲しみを共有できるものと思い、男に色々と話をするがまるで通じない。娘の名前を用いて奨学金基金を作ろうとするが、男は乗り気ではない。それは、冷たい人間に見えるだろうか。私もちょっと、それはと思ってしまった。あまりにも大袈裟に思えた。

 男は妻の亡くなった病院の自動販売機でM&Mを買おうとする。きちんとお金を入れて、ボタンを押すがチョコが出てこない。そのことに腹を立ててクレームを、自動販売機を売っている会社へ送る。手紙にことの詳細を書き、不満をぶつける。そうしてカスタマーサービス課の女性と知り合い、徐々に自分を取り戻していくのであるが、その大部分は省略することとする。

 この「手紙を書く」という行為、そこから繋がる人間関係と気持ちの整理。この映画は男が手紙を通して出会った女性と新しい恋人関係になり、見事結ばれて、ハッピーエンドというわけではない。妻を亡くした男の気持ちの落ち着けどころを探るストーリーである。物語はハッピーエンドでなければ、と思っている時もあったが、最近はその「ハッピー」が何なのかわからなくなってきた。誰かを亡くして、新しい誰かと結ばれなくてもその人間の日々は続いていくのであって「エンド」まではほど遠い。結ばれることが「ハッピー」なのかもわからない。映画なのだから当たり前だと思うが、私たちの現実もそんなものではないかと思う。

 考えてみれば、私はその「エンド」を求めているのかもしれない。人生の選択をしただけで「エンド」になると思っていたのかもしれないが、そんなことは全くなく、どこまでも話は続いている。そう思うと私は安心が欲しかったのだと気がつく。安心できる役割になればそのエンドは大抵決まっているからだ。今でも先が見えないことはとても怖い。過去と向き合うことはできても未来がどうなっているのかはわからない。そんな不安を抱えながらも、自分が進んだ先でエンドへ向かってひたすら歩くことしかできない。人生はそういうものだろうか。私にはまだよくわからない。わからないからこうしてぐるぐると考えている。

薄く漂う

*ネタバレあり

 今日映画「あのこは貴族」を観た。第一印象は「うっすらと、もやのかかった映画」だった。映画は華子と美紀のそれぞれの生き辛さが章ごとに次々と描かれる。東京の上流層の華子と、地方出身の美紀。華子は家族から結婚を急かされ、美紀は大学を中退し一人東京で生きる。どちらも、私とは違う。彼女たちの友人である逸子と里英も、当然のことながら私とは違う人生を歩んでいる。それでも、あの空気感を私は知っていると思った。私は境遇的に言うと美紀に一番近いポジションだ。地方出身、家が裕福なわけでなければ特筆したものは特にない。田舎のただの普通の家。違うところといえば、私はまだ都会に出たことはない。都会で一人で生きるという経験をしたわけではない。自分の足で立つという経験がない、ということに関しては美紀よりも華子の方にポジションが寄る。どちらの人生にも覚えがある。全く同じではないけれど、心のどこかで同じような焦燥や重圧を感じているのかもしれない。どちらも見えない将来に不安を抱いている。そこは、非常に共感できる部分であると思う。

 劇中、華子の友人である逸子が美紀に向かって「いつでも別れられる自分でいたい」ということを話す。とても共感できて、とても好きな考え方だと思った。しかし、彼女はバイオリンで生計を立てるべく国内外を行ったり来たりしながら、演奏する場所を探している。この時点でもう私とは「違う人生を歩んでいる人」である。逸子も上流層の出身で仕事がないといいつつも、国外には行けたり、高級そうな場所で食事をしたり、精神的にも余裕があるように見えたりするところからしてもう「違う」のだ。私とは違う、ぶっちゃけると恵まれている人だ。それでも、彼女の言うことにはとにかく共感できたし、それを理由にそういう相手を憎むべきでもないのだと思った。なぜなら逸子の言っていた別れられる自分についても、華子のことに口出しできるわけではないと言ったことも、自立したいと言っていることも、それらは私も同じように考えているのだ。思考の片鱗を共有できる相手をなるべくなら憎みたくはない。映画の中で「東京は階級の違う人と出会わないように住み分けされている」ということも述べられたが、出会わずとも、上に書いたように私たちはどこかで共感できる。同じものを見ている。それが全く同じもので無かったとしても。そういう、何かはっきりとは見えない、漂うもやのような、薄いけれど広く充満している、そういう繋がりを感じる映画だったように思う。

 あるシーンで、華子が美紀の部屋を訪れたときに「落ち着きます。だってここ、美紀さんのものばかりだから」(うろ覚え)と言うシーンがある。これにも思い当たる節がある。華子は用意されたものの中で生きていて、それは幸一郎もそうなのだが、そこにも息苦しさがある。自分で選んでいないものには、責任の所在を当てられない。これはものだけではない。自分で生き方を選べない、選んでこなかった華子と幸一郎はそうした苦しさを背負っている。誰に言われるわけでもないが、そうなるように決まっている人生。それをもろともせずに、むしろ利用して生きている人もいるのだろうが、そうやって選択を狭められてきた人にはわかる苦しさだと思った。選ばされたことと、選んだことの境界線はどうやって引けばよいのだろうか。選ばざるを得なかったことは?私にはその線引きができるかどうかすらもまだわからない。きっとそれはいつでも発生する。選んだように見せて、選ばされているものの方が多いのではないだろうか。それに気が付いたところで、自分で何もかもを選ぶことのできる人なんてどれくらいいるのだろう。私も部屋の中ぐらいは、自分の好きなもので埋めたい。

また、幸一郎については彼が劇中全くもってどんな人間なのかが掴めなかったところが不気味でもあった。全く自分の考えというものを話さない。彼が口にするのは家のことばかりで華子も美紀も彼のことを知らないように感じた。華子を虐げたり、雑に扱ったりするわけではない。ただどこまでも無関心で、私はそれが怖かった。婚約者も人生さえも全てが決まっていることもまた華子と似ているが、違う苦しさなのだろう。

 美紀の部屋からの帰り道、華子は橋の上で自転車に二人乗りをする女性と手を振り合う。言葉を交わすでもなく、ただ手を振る。反対に進む彼女たちにはたったそれだけの交流しかない。きっとその先は永遠に出会わない。それでも、あの瞬間、彼女たちは確かに手を振りあっていた。何かが繋がっていた。あの一瞬で華子は何を思っただろうか。足取り軽く、家に帰れただろうか。そうならいいと思った。私も映画を観終わって帰る時、橋を渡った。2時間だけの、長く続く人生においては一瞬の交流で足取りが軽くなった。今年に入って初めて劇場で観た映画は大きな衝撃を感じる映画では無かったけれどひっそりと、側に佇んでいるような映画だった。

 

就活戦線大荒れ大下落

 これは私の就職活動への思いである。

 私は今日から就活解禁(この表現にげんなりする)した人よりは先に就活戦線へと放り出された人間である。学校を卒業したら当たり前に働いて、当たり前にそのまま生きていくのだと思っていた。何十社も受けてみて、練習して、エントリーシートを書いて。なんてことを私はしなかった。正確にいうとできなかった。ある時から私はエントリーボタンを押せなくなった。働かなければ、働く先を決めなければ。なるべく自分に合った、やりたいことではないかもしれないけどできることを、自分でも続けられそうなところを。早く決めなければ。そう思う内に私はいつの間にかエントリーボタンを押せなくなっていた。押そうとすると不安が押し寄せてくる。何社応募した、内定が決まった、テストがうまくいった、今度面接がある。そういう周囲の人間が当たり前にできている、もしくは努力できることが急にできなくなっていった。なんで?と思った。私はずっとこれまでそういうことをちゃんとできていたはずだ。周囲の人ができることは平均以上にできると評価されていたし、自分でも努力することが嫌だとか苦しいとか思うときはあっても「できない」ということはなかった。混乱した。急に、自分が世界で一番劣っている人間なのではないかという気持ちになった。それは今も時々自分に襲いかかってきて、私が外に出るための一歩を阻む時がある。どこの誰でもない自分がどこかの誰かになれればいいのにと何度も思うようになった。それから、私は何もできなくなった。働かなければという意識だけがいつも頭の半分を占めていて、求人をみては応募ができずにただ時間だけが過ぎていった。しんどい、しんどいしもう何もできない。そう思って何もしなかった。そしてとうとう周りが働き出して、私は働けなかった。

 この選択を後悔しているかと問われれば20%くらいは後悔している。もう少し頑張れたんじゃないかとか、もう少しいい選択ができたんじゃないかとか、どうしても考えてしまうのだ。でも、残り80%は後悔ではない。まず、何よりも精神を傷つけることの恐ろしさを知れたのがよかった。自分がどんなことで傷つくのか、どんなことができないのかの傾向を知ることができた。それだけでも後悔だけが残るような経験ではない。そして、自分がこれまで何もしてこなかったことを知れた。流されるままに生きることは何ら悪いことではない。それが上手い人間もいるし、そうしたい人がいることは当たり前である。しかし、私はそうできないのだと知ることで、自分がどう生きていくかの指針を見つけた。働くことはすごいことだ。私も働く経験がゼロではないのでその大変さは身に染みている。ただ、できることが違っているのだ。私ができることとしたいことはまだまだ不明確で、それがこの先どうなるのかはわからない。だから色々なものに触れようと思った。触れて、自分ができることは精一杯やればいいと思った。学校を出たからといって働く義務があるわけではない。でも働かなければ生活ができない。生きていけない。もしくはやりたいことがあって、そのために働く。好きなものが欲しいから、好きな生活がしたいから。どんな理由であれ働くことは誰にでもできることではない。現に自分がそうだからよくわかる。誰もが働けるわけではないし、誰もが働きたいわけでもないし、その逆もあるのだ。あり得る、ではなく。

 どうか、今日から始まる就活というもので精神を傷つける人が増えないように祈っている。多分、傷つけられることが多いと思う。でも、どうか自分で自分を傷つけないでくれと思う。そうなることに鈍感になってほしい。どうにかならなくても、どうにもできなくてもいい。できないことを責めるのは他人だけでいい。できないことを責めてくる他人なんて無視できれば一番いいとは思うし、そうしない人がいないのが一番だけれども。勝手に土俵に上げられて、右も左もわからないまま戦わなくてもいい。逃げても、誰かを頼ることも悪ではない。追い詰められて、大事なものまで失う必要はない。失っても一緒に探してくれる人は自分しかいない。それを実感することがない方が幸せなのかも知れない。精神的に楽、という意味では。それでもどうやってもそうなってしまう、そうしてしまう人もいる。私がそうだったから、いるのだ。そういう人はそれにのめり込まないようにだけ心がけてほしい。うまくできなくても、人と同じようにできなくてもいい。自分で自分の価値を下げないようにするのは難しい。否定されて、自分の過去ややってきたこと、性格に「どうして?」と理由を求められることもある。そしてそれをお祈りとして否定されるようなこともある。でもそれは、それまでの自分の価値がないとか、劣っているとかの理由にはならない。そもそもそれだけで価値を測ることはできない。価値尺度なんていつでも変化するからだ。だからどうかどんな結果になってもそういうものか、くらいの気持ちでいればいいのだ。やりたいことができなくても、希望が叶わなくても、就職できなくてもそれまでが無駄なことなんてない。価値がないなんてこともない。人生が終わることもない。あの日、自分に言い聞かせるようにして口にしていた言葉がほんの一瞬でも誰かの慰めになればいいと思う。