水辺で待つ

書き残し

大丈夫の練習

 以前の記事にも書いたように、お金を使うことが苦手だ。

 自分の欲しいと思うものに対して、お金を素直に出せたためしがない。幼い頃からお金がないと聞かされていたからか、何事に対しても諦めを感じながら取り組んでいたように思う。

 習い事も、欲しいものも、結局「お金がない」という理由で諦めざるを得なかったからか、私には常に諦めや期待しない癖がついて回っている。新しく始めることや、やってみたいと思ったことも大体はうまくいかないだろうと思いながらやっている。そのくせ失敗することが怖くて必要以上に神経質になりながら日々、どうにかお金を稼いでいる。

 そうやって期待せずに生きるのは楽ではあるが、楽しいのかどうかわからない。そういう状態がずっと続いてきて、ついには抑うつ的な状態にまでなってしまった。

 会社に勤めて働くイメージが持てず、私は就活もそこそこにフリーでやっていくしか無くなった。今でも、フリーターなのかフリーランスなのか、何でも屋なのかわからないような仕事をしている。お金がないという状態が常だったから、お金を稼ぐということに対しても無頓着になってしまったのだろうか。それとも、一組織に所属して働くということに対して、私の中の何かが拒絶反応を示して、防衛本能でこんな状態になっているのだろうか。

 

 そんな状況に嫌気が差して、今年、というか今年度から自分のお金をきちんと管理するようになった。

 必要な費用を除いて、貯金ができそうな時はしておいて、残った分を自由なお金として使う。かなり堅実で慎重なやり方だと思うが、自分にはそういったやり方があっている。お金がなくなるかもしれないというストレスよりは、買うものを吟味して自分の欲しいものだけを買っていく方が私にはあっている。

 もちろん、高いものや欲しいと思ったものを何の躊躇もなく買いたいが、そうするには私の経済力や精神力がついていけないこともよく知っている。私は段々と、自分がどうすればフラットで、大丈夫な状態になれるのかを模索している。

 先日本を買った。正確には漫画である。漫画を数冊買うだけで、罪悪感のようなものを感じた。でも、手に持った漫画をレジに持っていくまで、大丈夫大丈夫お金は無くならない、と念じながら精算を済ませた。

 哀れだろうか?惨めだろうか?私はそれを買った時、確かに数冊の漫画以上のものを手に入れた気がした。だから、哀れでも惨めでもない。

 私がそう思ってさえいればいいのに外野がうるさい。そしてまた、こうやって大丈夫だと確認するために言葉を取り出す。

 今月、残ったお金を私は安心のために貯蓄する。そうやって少しずつ私は私の安息地帯を見つけていく。そうやって少しずつ、今までの自分から自立できるのかもしれない。