水辺で待つ

書き残し

隙間

 

 日々が目まぐるしく過ぎていく。

 ここ一週間ほど忙しくしていて、先週のような気持ちになることが少なくなった。忙しさは何かを考える隙間を埋める。それがいいことなのか、悪いことなのか。時と場合によるのだろうけれど、私は自分が何かを考えることをやめると、行き詰まりを感じてしまう。

 幼い頃から、常に何かを夢想している人間だった。今思うと、途方もないことをずっと考えていた。なぜ私は私として生まれたのか、とか、もし名前が違ったら違う人間になっていたのか、とか自分に自然を操れる力があったら何にするとか、妖怪がいるのか魔法はあるのかとか、色々と考えた。答えが見つからないことばかり気になって、考えていた。

 そんな自分が一旦、思考を停止した時期もある。高校生になると、私はそうしたどうやっても答えが見つかりそうもないことより、現実の問題を解くことに必死だった。何かに取り憑かれたように勉強していた。ストレスと感じることがないくらい、習慣的に勉強していた。多分、おかしくなっていたのだと思う。自分のやらなければいけないことも、やりたいこともなかったから、その隙間を埋めるために勉強をしていた。

 私にはそれしかない、というように。そんな自分を失くしてしまったら、意味がないのではないかとすら思っていたのかもしれない。進路が明確にならないから、取り敢えずできるだけ勉強をやっておこうと思っていたことが、いつの間にかそれをしなくては落ち着かないまでになっていた。

 手段と目的がごちゃごちゃになっていたのだと思う。私は、自分の将来のために勉強を始めたはずが、いつの間にか勉強するために勉強していたのだ。

 ただ、そんなことに気がつけるほど余裕があったわけでもなければ、周りはよく勉強する子だと褒めるのだから気がつくはずもない。私は、もう少し勉強する私以外になってもよかったのではないかとも思う。

 何か一つのことしかやっていないと、それがダメになった時、それに価値を感じなくなった時どうしていいのかわからなくなる。なるべく、たくさんのことをできる自分になりたいと思う。一つのことを極めるのも大切だ。就業してからは、仕事に集中することも、生活のほとんどを仕事に充てるもの、悪いことじゃないとわかるようになった。仕事は悪ではない。敵でもない。でも、責任が生まれるし、怒られることも、失望されることもある苦しいことだ。でも、その中でも私は少しでも、仕事が自分のためになる瞬間があればいいと思う。能力が高まったり、できることが増えたりするだけでなく、もっと別の意味を見出せるのではないかと思う。もちろん、対価はきちんと支払われた上で。

 人生の主体が自分ならば、人生の主題も自分になるのかと言われれば、そうではない。私は、自分のために時間を使っている時と、そうでない時がある。それでも、やはりどうしても、どこまでも自分のためになってくれと願うことをやめられない。四半世紀以上を生きてきてやっと、私は私のことがわからないのだとわかってきたような予感がしている。