水辺で待つ

書き残し

薄く漂う

*ネタバレあり

 今日映画「あのこは貴族」を観た。第一印象は「うっすらと、もやのかかった映画」だった。映画は華子と美紀のそれぞれの生き辛さが章ごとに次々と描かれる。東京の上流層の華子と、地方出身の美紀。華子は家族から結婚を急かされ、美紀は大学を中退し一人東京で生きる。どちらも、私とは違う。彼女たちの友人である逸子と里英も、当然のことながら私とは違う人生を歩んでいる。それでも、あの空気感を私は知っていると思った。私は境遇的に言うと美紀に一番近いポジションだ。地方出身、家が裕福なわけでなければ特筆したものは特にない。田舎のただの普通の家。違うところといえば、私はまだ都会に出たことはない。都会で一人で生きるという経験をしたわけではない。自分の足で立つという経験がない、ということに関しては美紀よりも華子の方にポジションが寄る。どちらの人生にも覚えがある。全く同じではないけれど、心のどこかで同じような焦燥や重圧を感じているのかもしれない。どちらも見えない将来に不安を抱いている。そこは、非常に共感できる部分であると思う。

 劇中、華子の友人である逸子が美紀に向かって「いつでも別れられる自分でいたい」ということを話す。とても共感できて、とても好きな考え方だと思った。しかし、彼女はバイオリンで生計を立てるべく国内外を行ったり来たりしながら、演奏する場所を探している。この時点でもう私とは「違う人生を歩んでいる人」である。逸子も上流層の出身で仕事がないといいつつも、国外には行けたり、高級そうな場所で食事をしたり、精神的にも余裕があるように見えたりするところからしてもう「違う」のだ。私とは違う、ぶっちゃけると恵まれている人だ。それでも、彼女の言うことにはとにかく共感できたし、それを理由にそういう相手を憎むべきでもないのだと思った。なぜなら逸子の言っていた別れられる自分についても、華子のことに口出しできるわけではないと言ったことも、自立したいと言っていることも、それらは私も同じように考えているのだ。思考の片鱗を共有できる相手をなるべくなら憎みたくはない。映画の中で「東京は階級の違う人と出会わないように住み分けされている」ということも述べられたが、出会わずとも、上に書いたように私たちはどこかで共感できる。同じものを見ている。それが全く同じもので無かったとしても。そういう、何かはっきりとは見えない、漂うもやのような、薄いけれど広く充満している、そういう繋がりを感じる映画だったように思う。

 あるシーンで、華子が美紀の部屋を訪れたときに「落ち着きます。だってここ、美紀さんのものばかりだから」(うろ覚え)と言うシーンがある。これにも思い当たる節がある。華子は用意されたものの中で生きていて、それは幸一郎もそうなのだが、そこにも息苦しさがある。自分で選んでいないものには、責任の所在を当てられない。これはものだけではない。自分で生き方を選べない、選んでこなかった華子と幸一郎はそうした苦しさを背負っている。誰に言われるわけでもないが、そうなるように決まっている人生。それをもろともせずに、むしろ利用して生きている人もいるのだろうが、そうやって選択を狭められてきた人にはわかる苦しさだと思った。選ばされたことと、選んだことの境界線はどうやって引けばよいのだろうか。選ばざるを得なかったことは?私にはその線引きができるかどうかすらもまだわからない。きっとそれはいつでも発生する。選んだように見せて、選ばされているものの方が多いのではないだろうか。それに気が付いたところで、自分で何もかもを選ぶことのできる人なんてどれくらいいるのだろう。私も部屋の中ぐらいは、自分の好きなもので埋めたい。

また、幸一郎については彼が劇中全くもってどんな人間なのかが掴めなかったところが不気味でもあった。全く自分の考えというものを話さない。彼が口にするのは家のことばかりで華子も美紀も彼のことを知らないように感じた。華子を虐げたり、雑に扱ったりするわけではない。ただどこまでも無関心で、私はそれが怖かった。婚約者も人生さえも全てが決まっていることもまた華子と似ているが、違う苦しさなのだろう。

 美紀の部屋からの帰り道、華子は橋の上で自転車に二人乗りをする女性と手を振り合う。言葉を交わすでもなく、ただ手を振る。反対に進む彼女たちにはたったそれだけの交流しかない。きっとその先は永遠に出会わない。それでも、あの瞬間、彼女たちは確かに手を振りあっていた。何かが繋がっていた。あの一瞬で華子は何を思っただろうか。足取り軽く、家に帰れただろうか。そうならいいと思った。私も映画を観終わって帰る時、橋を渡った。2時間だけの、長く続く人生においては一瞬の交流で足取りが軽くなった。今年に入って初めて劇場で観た映画は大きな衝撃を感じる映画では無かったけれどひっそりと、側に佇んでいるような映画だった。