水辺で待つ

書き残し

どうしようもなくてどうもできない

 ここ何年かで、私にとってとても大きな変化があった。一番大きな変化は自分がどうなりたいのかを考え始めたことだと思う。将来の夢というものを学校で考えるときがたくさんある。卒業という一つのコミュニティーを抜け出すと、次のコミュニティーに所属するために色々と準備をしたり、試験を受けたり、面接をしたり、次の居場所を探すことが必要とされる。進路選択の他にも、入学した時に将来について考えたり、将来につながることをしなさいと教えられる。私はずっとそれがわからなくて、今でもわからなくて、だからこそ確固たる自分の居場所というものを持ち得ないのだと思う。私はフラフラしていた。学校生活でも、私生活でも、働いていても。よく年上から言われるのは「どうしたいの?」だった。いつ、どんな年齢でも「どうしたいか」を聞かれることがたくさんあった。どうしたいのかなんて、わかるはずもなく。それでも、生きている。

 今、進路選択や将来について悩んでいる人がいるなら、そしてもしあの日の私に声をかけることができるのならば絶対に、絶対に自分の興味関心に従え、と言う。ほんの小さなことでもいい。たまたま何かで見て、興味が湧いたとか、テレビで見た時自分で調べたことがあるとか、なんかかっこいいとか、そんなことでいい。就職とか、そう言うことを抜きにしてもいい。専門職なら、それは必要なのだけれど。まあ、進学するにしろ、就職するにしろ、生活の中心がそれになっても、思考まで全てそこに注がなくてもいい。それが将来の仕事につながらなくても、趣味で終わっても、趣味にさえならなくてもいい。今、その瞬間に自分の興味関心に従うと言うことが大切なのだと思う。

 「いつか」は永遠にやってこない。「いつかやる」は「いつまでもやらない」だ。別にそれでもいい。ただ、一週間の一ヶ月の一年のうちの、ほんの一瞬。「今かもしれない」と思うことがある。その瞬間だけは「いつか」が「今」になる。その瞬間に立ち会う時、その時にはどうにもならないことがどうにかなるような気がする。映画のワンシーンのように、なんとなくことがうまく運ばれるように思える。その時をたくさん感じたい。私の今現在の将来のやりたいことなんてそんなもんだ。そんなもんでもいいのだ。

 

 

 私がこれを書き記したのは、最近受験を終えたであろう学生をたくさん見るからだ。高校受験を終えた学生も、大学受験を終えた学生もたくさんいた。みんな、各々の道を進むのだろう。私もどちらもの受験を経験した人間として懐かしくもあり、苦しくもある、なんとも言えない思い出が嫌でも蘇ってくる。受験は団体戦だ、という言葉があるが完全に私は個人戦だった。塾に行けるほどの経済的余裕があるわけではなく、自学自習で大学に合格したわけであるがそうやって頑張っている人も、塾に通ったり家庭教師に教えてもらったりしている人もみんな合格できれば万々歳。でも、私は大学に受かった時安心はしたけど万歳ではなかった。安全圏を狙って、自分の学びたい分野もよくわからないまま、学校を選んでいたからだ。手が届きそうで、一番失敗しない場所を無意識に選ぶ癖と言うのは、今でもなかなか私の中から抜けてくれない。後悔はたくさんある。今の自分から過去の自分を見るのだから、後悔は当たり前に生まれる。ここで、私は「だからこそ後悔のないように生きろ」なんてことは言いたくない。私がそう思えるようになったのも、色々なことを経験したから言えるのであって例えば希望の進路を取ることができなかった人に「努力が足りなかったから」とか「これからは後悔ないように生きよう」とか、どうして言えるだろう。そんなことはわかっているのだ。「あの時こうしていれば」は現在の状況だから言えるのであって、その時はそうは言えないし思えない。私はどんな進路になったとしても、それで人生が終わることはないということだけを伝えたい。私も何度もやり直したい、消えてしまいたいと思ったことがある。虚無感というか、虚脱感というか、何もやる気がなくなって、生きるのが苦しいことがたくさんあったし、それは今でもある。それでも毎日時間は過ぎていくし、毎日生きている

 

 去年あたりに書いた記事。発掘したので載せておく。