水辺で待つ

書き残し

とけるなつ

 一気に気温が上がって、私の内臓が悲鳴をあげている。

 夏が一層暑くなって、毎年、この時期に溶けて無くなってしまうのではないかと考える。

 一番は脳みそだ。脳みそは熱に浮かされて、現実のことがどうでもよくなって何もかも捨ておきたくなる。

 いっそのこと、捨てて無くなってしまえばいいのだけれど。

 自分のことも、自分に近しい人のことも、何もかもうまくいかない。生きていくために必要なものが圧倒的に足りない。

 時間も、気持ちも、お金も何もかも余裕がない。余裕がないけれど、余裕を作る気力もない。

 私はずっと何かが「ない」という感覚に追われていて、それを埋めるために見当違いなことをたくさんやってきたように思う。

 学校にいた頃は、やるべきことが決まっていて、「ない」感覚は埋めることができていたから生きていやすかったように思う。

 学校は学校で閉塞感や、いろいろな感情が渦まいていたけれど、私はそういうものの「外」にいた人間だからある意味では、そこでは私は安全地帯にいたのだろう。

 でもそこを離れて、自分だけで「ない」を埋めなければいけなくなって、それが途方もないほど苦手なのだと気がついた。一体何を「ない」と思っているのか。本当に何もないのか、あるいはその根底には、私の貧乏癖が根付いているのか。因果関係ではないだろうけど、相関関係ではあると思う。

 今年の夏は多分、いろいろなことが変わっていくのだろう。参議院選挙があるし、自分のことでいったら、生活の場を移すことになると思うし、新しい試みをしようともしている。そうやって、いろんな物事を変えていこうとする自分が、いやになる時もある。

 このまま誰か、自分のことをここから連れ出してくれないかと思うことがある。

 寝台列車や夜行バスに乗って衝動的に逃げ出したくなるけど、その衝動に身を任せられない自分のこともわかっている。私は予定調和が好きで、衝動性が苦手なのだろう。でも世界は衝動で満ちていて、予期しないことがたくさん起こる。

 私はそこで生きていけるだろうか。こんなことを考えていることからして、もううんざりしているのだろう。

 暑くて、陰にいるはずなのに、冷たさを感じることができないのが悲しい。私はもっと湿気の少ない場所で生きていきたい。

 

大丈夫の練習

 以前の記事にも書いたように、お金を使うことが苦手だ。

 自分の欲しいと思うものに対して、お金を素直に出せたためしがない。幼い頃からお金がないと聞かされていたからか、何事に対しても諦めを感じながら取り組んでいたように思う。

 習い事も、欲しいものも、結局「お金がない」という理由で諦めざるを得なかったからか、私には常に諦めや期待しない癖がついて回っている。新しく始めることや、やってみたいと思ったことも大体はうまくいかないだろうと思いながらやっている。そのくせ失敗することが怖くて必要以上に神経質になりながら日々、どうにかお金を稼いでいる。

 そうやって期待せずに生きるのは楽ではあるが、楽しいのかどうかわからない。そういう状態がずっと続いてきて、ついには抑うつ的な状態にまでなってしまった。

 会社に勤めて働くイメージが持てず、私は就活もそこそこにフリーでやっていくしか無くなった。今でも、フリーターなのかフリーランスなのか、何でも屋なのかわからないような仕事をしている。お金がないという状態が常だったから、お金を稼ぐということに対しても無頓着になってしまったのだろうか。それとも、一組織に所属して働くということに対して、私の中の何かが拒絶反応を示して、防衛本能でこんな状態になっているのだろうか。

 

 そんな状況に嫌気が差して、今年、というか今年度から自分のお金をきちんと管理するようになった。

 必要な費用を除いて、貯金ができそうな時はしておいて、残った分を自由なお金として使う。かなり堅実で慎重なやり方だと思うが、自分にはそういったやり方があっている。お金がなくなるかもしれないというストレスよりは、買うものを吟味して自分の欲しいものだけを買っていく方が私にはあっている。

 もちろん、高いものや欲しいと思ったものを何の躊躇もなく買いたいが、そうするには私の経済力や精神力がついていけないこともよく知っている。私は段々と、自分がどうすればフラットで、大丈夫な状態になれるのかを模索している。

 先日本を買った。正確には漫画である。漫画を数冊買うだけで、罪悪感のようなものを感じた。でも、手に持った漫画をレジに持っていくまで、大丈夫大丈夫お金は無くならない、と念じながら精算を済ませた。

 哀れだろうか?惨めだろうか?私はそれを買った時、確かに数冊の漫画以上のものを手に入れた気がした。だから、哀れでも惨めでもない。

 私がそう思ってさえいればいいのに外野がうるさい。そしてまた、こうやって大丈夫だと確認するために言葉を取り出す。

 今月、残ったお金を私は安心のために貯蓄する。そうやって少しずつ私は私の安息地帯を見つけていく。そうやって少しずつ、今までの自分から自立できるのかもしれない。

 

隙間

 

 日々が目まぐるしく過ぎていく。

 ここ一週間ほど忙しくしていて、先週のような気持ちになることが少なくなった。忙しさは何かを考える隙間を埋める。それがいいことなのか、悪いことなのか。時と場合によるのだろうけれど、私は自分が何かを考えることをやめると、行き詰まりを感じてしまう。

 幼い頃から、常に何かを夢想している人間だった。今思うと、途方もないことをずっと考えていた。なぜ私は私として生まれたのか、とか、もし名前が違ったら違う人間になっていたのか、とか自分に自然を操れる力があったら何にするとか、妖怪がいるのか魔法はあるのかとか、色々と考えた。答えが見つからないことばかり気になって、考えていた。

 そんな自分が一旦、思考を停止した時期もある。高校生になると、私はそうしたどうやっても答えが見つかりそうもないことより、現実の問題を解くことに必死だった。何かに取り憑かれたように勉強していた。ストレスと感じることがないくらい、習慣的に勉強していた。多分、おかしくなっていたのだと思う。自分のやらなければいけないことも、やりたいこともなかったから、その隙間を埋めるために勉強をしていた。

 私にはそれしかない、というように。そんな自分を失くしてしまったら、意味がないのではないかとすら思っていたのかもしれない。進路が明確にならないから、取り敢えずできるだけ勉強をやっておこうと思っていたことが、いつの間にかそれをしなくては落ち着かないまでになっていた。

 手段と目的がごちゃごちゃになっていたのだと思う。私は、自分の将来のために勉強を始めたはずが、いつの間にか勉強するために勉強していたのだ。

 ただ、そんなことに気がつけるほど余裕があったわけでもなければ、周りはよく勉強する子だと褒めるのだから気がつくはずもない。私は、もう少し勉強する私以外になってもよかったのではないかとも思う。

 何か一つのことしかやっていないと、それがダメになった時、それに価値を感じなくなった時どうしていいのかわからなくなる。なるべく、たくさんのことをできる自分になりたいと思う。一つのことを極めるのも大切だ。就業してからは、仕事に集中することも、生活のほとんどを仕事に充てるもの、悪いことじゃないとわかるようになった。仕事は悪ではない。敵でもない。でも、責任が生まれるし、怒られることも、失望されることもある苦しいことだ。でも、その中でも私は少しでも、仕事が自分のためになる瞬間があればいいと思う。能力が高まったり、できることが増えたりするだけでなく、もっと別の意味を見出せるのではないかと思う。もちろん、対価はきちんと支払われた上で。

 人生の主体が自分ならば、人生の主題も自分になるのかと言われれば、そうではない。私は、自分のために時間を使っている時と、そうでない時がある。それでも、やはりどうしても、どこまでも自分のためになってくれと願うことをやめられない。四半世紀以上を生きてきてやっと、私は私のことがわからないのだとわかってきたような予感がしている。

 

 

浮遊

 最近、何かを考える時間が増えていて、精神的におかしくなりそうになる。

 春は物事が動くことが多くて、忙しなく感じる。いつもと同じように過ごしていてもどこか気持ちが焦っているような感じがして落ち着かない。

 自分のこの先のことを考えて、特にやりたい仕事がないことに気がつく。やりたい仕事がある人は、どうしてそんな風に思えるのだろうか。私は、よくわからない。それよりも、自分の生活を優先させたいと思っているからだろうか。仕事の楽しさをわかっていないからだろうか。

 人生において打ち込めるものをずっと探しているのに、いつまでも見つからず、それが不安でもう何も頑張りたくないと思うことが多い。

 その何かを見つけることができれば自分は頑張れると知っている。今、私が取り組んでいることはそこまで打ち込めるものではないのだろうか。ちょっとした興味で始めたことが実を結ぶのはずっと先のことだとわかってはいるけれど、私は何か確信めいたものを欲している。

 ずっと続けられる仕事、ストレスのない関係性、持続的な収入、自分が明確に誇れるもの、私を知らない人ばかりでの新しい生活。

 今、すぐには手に入らないかもしれないけれど再来年くらいには手に入れることができるだろうか。手に入れたとして、それを続けていくことの方が重要なのかも知れない。

 とりあえず今は、なんでもいいから確信が欲しい。

混乱と自立

 友人に会うたび、将来への不安ややるせなさや、社会との断絶について話をする。

 私も友人も、働くことに対して異なるが、同じ悩みを抱えている。仕事をすることに対する不安や失敗することへの恐怖、人間関係を円滑するための術。受け入れられないことが多くて、私たちは「働く」ということに対して良いイメージを持っていない。

 私は働いてはいるが、所謂「正規労働」ではない。ひと月の給与が安定しないし、そもそも貰える額が少ないので常に不安が付き纏う。実家も裕福ではないし、奨学金もあるし、その他税金も払うし、支払いは全て自分で行わなければならない。

 入るお金と出るお金の釣り合いが取れず、娯楽を享受することに対しても罪悪感を感じている。私は、実家でずっとお金がないと聞かされていたからか、お金を使うことや何かを欲しがることに対して躊躇してしまうことが多い。

 お金を浪費させる親も良くないとは思うが、お金がないなら、少ない中でどうすれば納得いく使い方ができるのかを教えて欲しかった。私はお金をいくら貯めても、安心できない。

 いつまでも親の教えやお金がないという恐怖心から抜け出せないのも癪なので、ひと月に使えるお金、必要な支出、貯金という風に分けてみようと思う。私は何か思いついてもできないことが多いので、これは来月から始められるよう、リマインダーに残した。来月は1日にお金をおろして、収入内でどうやって分けるかを考える。

 

 私は少しずつでも、色々なことから抜け出せるだろうか。少しずつでも、自分勝手に生きることができるようになるだろうか。

 いつかこんなに悩んでいたことも、懐かしく思うのだろうか。まだそのイメージができない。

どうしようもなくてどうもできない

 ここ何年かで、私にとってとても大きな変化があった。一番大きな変化は自分がどうなりたいのかを考え始めたことだと思う。将来の夢というものを学校で考えるときがたくさんある。卒業という一つのコミュニティーを抜け出すと、次のコミュニティーに所属するために色々と準備をしたり、試験を受けたり、面接をしたり、次の居場所を探すことが必要とされる。進路選択の他にも、入学した時に将来について考えたり、将来につながることをしなさいと教えられる。私はずっとそれがわからなくて、今でもわからなくて、だからこそ確固たる自分の居場所というものを持ち得ないのだと思う。私はフラフラしていた。学校生活でも、私生活でも、働いていても。よく年上から言われるのは「どうしたいの?」だった。いつ、どんな年齢でも「どうしたいか」を聞かれることがたくさんあった。どうしたいのかなんて、わかるはずもなく。それでも、生きている。

 今、進路選択や将来について悩んでいる人がいるなら、そしてもしあの日の私に声をかけることができるのならば絶対に、絶対に自分の興味関心に従え、と言う。ほんの小さなことでもいい。たまたま何かで見て、興味が湧いたとか、テレビで見た時自分で調べたことがあるとか、なんかかっこいいとか、そんなことでいい。就職とか、そう言うことを抜きにしてもいい。専門職なら、それは必要なのだけれど。まあ、進学するにしろ、就職するにしろ、生活の中心がそれになっても、思考まで全てそこに注がなくてもいい。それが将来の仕事につながらなくても、趣味で終わっても、趣味にさえならなくてもいい。今、その瞬間に自分の興味関心に従うと言うことが大切なのだと思う。

 「いつか」は永遠にやってこない。「いつかやる」は「いつまでもやらない」だ。別にそれでもいい。ただ、一週間の一ヶ月の一年のうちの、ほんの一瞬。「今かもしれない」と思うことがある。その瞬間だけは「いつか」が「今」になる。その瞬間に立ち会う時、その時にはどうにもならないことがどうにかなるような気がする。映画のワンシーンのように、なんとなくことがうまく運ばれるように思える。その時をたくさん感じたい。私の今現在の将来のやりたいことなんてそんなもんだ。そんなもんでもいいのだ。

 

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 今の仕事について、もうすぐ一年になる。

 時の流れというのは速くて、私の感情や価値観が変わる前にどんどん進んで行ってしまうので、どうにもバラバラな感覚をよく抱く。

 頭と、「時間」という世界に縛られた現実が乖離している。私の頭の中は、数年前からずっと「私はどうやって生きていくのだろう」ということで埋め尽くされている。そこから派生する様々な、問題にああでもない、こうでもないと言いながら対峙している。

 時に、私はどこか遠くへ逃げ出したくなる。それは決まって、物事がうまく進まないときで、この先、自分に何一つとして良いことなど起こらないのではないか?という考えが頭を埋め尽くす時だ。消えて無くなりたいわけではない。ただ、私のことを何も知らない人たちの中で、何でもいいから生きていたい。

 私は失敗することに対する恐怖が大きくて、いつも怯えていて、自分の世界に立ち入られるのが嫌で、だから不機嫌で取り繕った、無愛想な人間であった。学生の時から、第一印象は「怖い」「おとなしい」「落ち着いている」だ。そういう虚構はいざ知らず、周りの人間は私を矢面に立たせることが多かった。何かを代表するものであったり、発言を求められることも多かった。

 一度だけ、明確に「嫌だ」と意思表示したことがある。確かあれは高校の時で、委員長を決める春のことだったと思う。多数決か何かで私が一番多く票を集め、その次に票を集めた子が最後まで残っていた。

 正直、どうでもいいのだ。やるかやらないかなど。でも、何となく「みんなが選んだから」と言って私が大人しく従う必要とか、義理があるのか?と思ったら、急に嫌になって「○○さんにやってもらいたいんだけど、いいかな?」と先生に問われた際に難色を示したのである。

 

 「え〜っと、嫌です」

 「でも多数決で決まったし、みんなが選んでくれたから。いいかな?」

 「はあ」

 

 多分、それくらいのやり取りで、私以外誰も覚えていないだろうことだ。でも、あの時私は確かに私であった気がする。

 それまで反抗することなく、無難にやり過ごしていた私から離れて、その時の感情のまま、おかしいと思ったことに難色を示すことができたのは、私が確かに私であった瞬間だった。

 

 私はわがままを言えない。

 今食べたいものも、したいことも、この先どうやって生きたいかも、何もない。

 その理由はわかっているけれど、教えない。口に出すと、憎しみでどうにかなってしまうから。言わない。あの日の、あの瞬間のまま生きていたら、私は今、こんなにも消えたいなど思わなかっただろうか。

 追いつかない。私の心が、時間の流れについていけない。ついて行かなくてはならないのかも、もうわからない。

 「嫌です」「でも、みんなそうしてるし」

 一体いつまでこの押し問答は続くのだろう。